***注意*** 時雨PのSS、to the wonderful new worldの勝手にスピンオフです。 千早が一人暮らしのために家を出て行く日までの、別の角度からの物語。 765プロがご両親に報告する過程を少しだけ捏造しています。 時雨P、ご容赦ください。 そしてシリーズ完結おめでとうございます。 千早、誕生日おめでとう! ******** 「それじゃあ如月さん、また電話するわね」 「ええ、それじゃまた」 形だけの笑顔を浮かべて、踵を返す。 いつもの事だとわかっていても、高崎さんの奥さんの話はあまりにも長すぎた。 静かにさえ思えてくる街の雑踏をかき分けながら、買い物を始める。 ――そう言えば、千早は家で食べるのかしら? 携帯に手を伸ばしかけて、やめた。 あの子は今ごろ部活のはず。 きっと電話に出ないであろう理由を、自分の中でそう決め付けた。 あの子なら大丈夫。歳のわりに分別もあるし。 融通が利かなさすぎるところは問題だけれど。 あの子がそんな風になったのは、いつからだっただろう? 考えた直後に、考えたこと自体を後悔した。決まりきった答えしか出てこないからだ。 全てはあの日から始まった。あの日から、私達の帰るべき家は、私達のための石の牢獄になった。 買い忘れたものに気が付いて、コンビニへ入った。 目当てのものを手に取ろうとして、ふと立ち止まった。 ・・・・・・・ ・・ 見慣れたものを、見た。そんな気がしたからだ。 あまりにも当たり前すぎるもの。でも、ここで見るはずのないもの。 視線をめぐらせて、それを見つけた。 芸能雑誌の表紙の片隅にある、娘の名前だった。 とさっ、と音がして、レジ袋が、落ちた。 仕事を定時に上がったのはいつ以来だっただろう。 そして、平日の夜にこの人と待ち合わせるなんて。 「――遅いな」 「まだ約束の時間までには15分あるわ」 この喫茶店に来ておおよそ30分、それが最初の、そして唯一の会話らしい会話だった。 何故だろう、一度は添い遂げると誓った人が、今ではまるで他人にしか見えなかった。 「如月さん、でよろしいでしょうか」 緩慢な時を、やわらかい女性の声が動かし始めた。 視線を向けると、スーツに身を固めたボブカットのOLが立っていた。 「お待たせして申し訳ありません、お電話差し上げました765プロダクション社長秘書、音無と申します」 言いながらその女性は、丁寧に名刺を差し出した。 立ち上がり、こちらも頭を下げる。 「如月千早の母でございます」 「父です。この度は娘がご迷惑を……」 夫が言ったその言葉に、女性の傍らにいた男が答えた。 「迷惑などとんでもない。娘さんの才能にはわたくし共もただ驚かされるばかりです」 そこでいったん言葉を止めて、その男性も名刺をこちらに差し出す。 肩書きは、代表取締役社長。 「申し遅れました、わたくし765プロダクション社長の高木と申します」 音無と名乗る女性からの電話を初めて受けたのは、偶然にもコンビニの雑誌コーナーで娘の名前を見かけたその後だった。 雑誌を買い、目を通していたのにもかかわらず、その電話の内容を正確に受け止めるのにはなお努力を要した。 娘が芸能活動をしており、飛ぶ鳥を落とす勢いの新人アイドルとしてさらに飛躍しつつある、というのだから。 誇りと喜び、そして不安が、同時に心の中を駆け抜ける。 だがそれは、その後の説明で粉みじんに砕かれた。 「……当事務所も千早さん以外にも幾人か女性アイドルを抱えております。 その場合も含め、本来でしたらプロデュースを開始する段階でご両親にはご挨拶に伺っているのですが、 ご本人……千早さんの『知らせないように』とのたっての希望でして……」 事の顛末を私からの伝聞からでしか得ていない夫に、二人が同じ説明をした。 場所はすでに、事務所側が予約していたレストランに移っている。 「こちらの雑誌を、ご覧になってください」 昨日コンビニで手に入れた雑誌の他に、いくつもの若者向けの芸能誌が混じっていた。 付箋が貼られたページが、全て千早の記事のあるページだった。 「娘さんはその歌唱力で、若者のカリスマとしての地位にさえ手が届く可能性がございます。 事ここにいたっては、娘さんをお預かりする以上ご両親にお話せざるを得ないと判断いたしました。 このような段階でのご報告になったこと、お詫びいたします」 そう言って、高木社長が深々と頭を下げた。 夫が雑誌から目を離す。 ワイングラスに伸ばしかけた手を戻して、言った。 「……お話は大体わかりました。そちらも企業活動だ、今更千早を手放せと言っても事情が許さんでしょう」 その言葉を聞いて、心の中に黒いものがちら、と蠢いた。 いつもそうだ。まるで人を歯車か何かのように。昔はこんな人ではなかったのに。 この人ががこんな風になったのは、いつからだっただろう? 考えた直後に、考えたこと自体を後悔した。決まりきった答えしか出てこないからだ。 すべては、あの日から。 「千早が芸能活動をしているのはまだいい。あの子は歌が好きでしたから、そういう形も一つの選択肢です。 もっとも、私達も最後に聴いたのはいつか思い出せないほど昔の話ですが。 ……しかし、それを私達にまで話さない、事務所にも口止めをするとはどういうことだ」 夫の口調が、次第に吐き捨てるように変わっていく。 いつものパターンだ。この後のセリフは手に取るようにわかる。 「そもそも家のことはお前に全て任せていたはずだ。 こういったことをコソコソ隠れて続けるようになったのも、お前がろくに目をかけないからじゃないのか」 その瞬間、私の中の黒い何かが、弾けて、飛んだ。 「千早の親は私だけじゃないわ。あなただってあの子の親なのよ。 あなたあの子と最後に話したのはいつ?思い出せるの? そんなザマでこんな時に私だけを都合よく親にして、いい加減にしてちょうだい!」 「……身のない形だけの会話をするのと、何の差がある? お前だって中身のある会話はしていないだろうに。型どおりの挨拶くらいのものだろう。 そもそも私にだって仕事がある。お前と千早を食わせるために働いているんだ、千早のことくらいお前が面倒を見て当然だろう!」 「まあまあ、落ち着いてください」 水の入ったグラスに伸びかけたその手を、どうにかその声が押し留めた。 手を伸ばしかけたフリをして、ゆっくりと戻す。震えていた。 なぜ。いつも。わたしが。 「戸惑われるお気持ちもよくわかります。その原因を作ったのは私達765プロのようなものです。これに関しては全く否定できません」 「……お見苦しいところをお見せしました。痛み入ります」 「いえいえ。そして、これからの件なのですが……」 高木社長が威を正してこちらに向き直る。 「はっきりと申し上げます。 娘さん、千早さんは私のキャリアの中でもトップクラスの才能をお持ちです。 今はまだ荒削りではありますが、キャリアを積み重ねればミリオンセールスやレコード大賞も、夢ではありません。 むしろ現実に可能でしょう。それも遠くないうちに」 テレビの中でしか存在を知らない言葉が、目の前を飛んでいる。 私の娘が、そこに、届く? 「千早さんは歌うことに賭けているようです。 彼女には我が社の有能なプロデューサーが……今日は千早さんと仕事のためここにはおりませんが……とにかくついております。 その横で見ている我々から見ても、まるで人生そのものを投げ打たんばかりの気迫を感じるほどです。 ……つきましては、我々で今後も千早さんをお預かりさせていただけないでしょうか?」 全てを投げ打つほどに何かに打ち込む娘の姿。 それを、私は思い浮かべることが出来なかった。 なぜだろうと考えて、悲しい結論に行き当たる。 見たことが、ないのだ。 私達が見たことのない娘を、この人たちは知っている。 横に目を向けると、夫の神妙な顔が見えた。 この人も同じ結論に行き当たったのだ。 「……それに関しては、問題ありません。あの子が、それを望むならば。 私達は、呆れるほどに千早に親らしいことをしてやれませんでしたから」 私の後に、夫が続ける。 「ですが、芸事の道というのは芸だけでは成り立たないのも事実なのではないですか?」 「……と、申しますと?」 「娘が更なる名声を得たときに想定されうるリスクです。……いわゆる、ワイドショー的な」 その言葉を聞いて、高木社長が秘書と顔を合わせた。 どうやらその事までは知らなかったらしい。 あの子が話したがらなかったとすれば、無理もない話かもしれない。 「どういう、ことでしょうか?」 「私達夫婦は、離婚を前提に話し合いを進めております。 千早にもいずれ、話すことになるでしょう」 息を呑む音。あるとすれば、今目の前で聴こえた音かも知れない。 「お話、願えますでしょうか?」 ちらりと、夫の方を見る。 わずかに視線をずらしただけなのに、目が合った。 顔を正面に向け、私から口火を切る。 「……8年前のことになります。あの子には、弟が一人、おりました」 吐き出す声が、震えていた。 「少し、歩かないか」 レストランでの話し合いを終えて765プロの二人と別れた後に、夫の方からそう切り出してきた。 夜のネオンに包まれた街路樹のある通りを、ゆっくりと二人で歩く。 小さな子供を連れた一組の夫婦が、私達の横を通り過ぎた。 何年も前に、持っていたはずの。そして、私達がなくした光景だった。 「……千早が、アイドルとはな」 「驚いたわ。あの子がそんな華々しい世界に、自分から飛び込んで行くなんて」 「『あいつ』が生きていたら、なんて言うんだろうな」 『あいつが生きていたら』。 それは、私達の長男がこの世を去ってしばらくしてからついた、夫の口癖だった。 そしてその言葉は、いつでも私への罵倒に繋がっていった。 石の様に、心が冷えていくのを感じる。 だが。 「……いや、すまない」 驚いて、気が付くと夫の顔を見ていた。 そんな言葉が出たのは、初めてだったからだ。 目を細めながら、ふうっ、と溜息をついていた。 「まさか、俺達のことが千早の足枷になる日が来るとは思わなかった」 「……いいえ、前からなっているわ」 なに、と夫が呟くのが聞こえた。 「私達があの子の前でしてきたこと、全部とは言わないまでも覚えているでしょう?」 もうひとつ、溜息が聞こえた。 「……なぁ、千早の心の中に、それでも俺達の居場所はまだあるんだろうか?」 きっと、あるのだと思う。 私達の心の中にも、千早の居場所がある。 でも。 私達お互いの居場所が、お互いの心の中にないのだ。 全てをゼロに戻してやり直すには、私達はあまりにも多くの過ちを重ねすぎた。 千早の「これから」のために一緒に居続けることを選んでも、いつまでもこれまでと同じ日々を繰り返していくのだろう。 それならば。 「……いい社長さん、だったわね」 「あの人も仕事だ。口では何とでも言える。……だけど、誠意は伝わってきた」 「プロデューサー……時雨さんって言うらしいわね?熱意のある人みたいじゃない」 「そのうち挨拶に来させるって言っていたな。……どんな男なんだろうか」 「何を言ってるのよ。嫁に行くわけでもあるまいし。でも、頑固なあの子を手懐けるくらいだし、悪い人ではないでしょう」 しばらくの沈黙。 そして私達は、顔を見合わせてうなずいた。 私達そのものが枷であるならば、あの子をせめてそこから開放してあげよう。 それが、私達にできる唯一の親らしいことなのかも知れない。 結局、私達はあの子の目の前で離婚届に判を押すことになった。 協議離婚で、慰謝料は発生しない。 合意の上で、親権はあの人が私に譲る形で決着がついた。 「私には、どっちも選ぶことはできないよ。みんな、一緒がいい」 千早は最後までそう言って、じっと私達のほうを見据えていた。 その目を、私達二人は最後まで正視することができなかった。 夫が歯噛みする姿をみたのは、あの子が死んだ時以来だった。 そして、石の牢獄だった私達の家から、争いの声が消えた。 夫の、姿と共に。 私達二人は最後まで、あの子の死にとらわれたままだったのだ。 四人での家庭は、私達二人にとってもかけがえのないものだった。 それを失った事実から、失った過程から、私達は抜け出すことが出来なかったのだ。 でも千早は、歌い続けることで抜け出したのだ。 あの子の死を受け入れ、それを乗り越えて築いていく新しい幸せに、千早はたどり着こうとしている。 私達が築けなかった幸せに、千早は手が届こうとしている。 嬉しかった。 そしてその事実が、例えようもなく、寂しかった。 気が付くと、夜の11時を回っていた。 女の片親よりも長く働く時がある、15歳の娘。 ふと情けなくなって、溜息交じりの笑いが口から漏れた。 テーブルの傍らの雑誌。 そこには、私がいつかコンビニで見た時よりも大きな見出しが付いていた。 『ミリオン突破!蒼い鳥、如月千早の魅力を探る』 自分の娘の歌を、のべ100万人の人が聴くなんて。ちょっと信じられなかった。 そんな立場になっても、私達二人のことが悪い形で表に出ることは、驚くほど少なかった。 高木社長が離婚の話を聞いたとき、全力でお守りします、と言ったのは嘘ではなかったようだ。 ……虚勢を張らず、誰かに打ち明けて協力を求めていれば。 あるいは別の形もあったのかも知れない。 考えかけて、首を振って打ち消した。 私達が選んだ、結論なのだ。 玄関のドアが開く音がした。千早が帰ってきたのだ。 いつしかそれが無駄であると知ってから、あの子は呼び鈴を押さなくなった。 足音が聞こえ、そして、リビングの戸が開いた。 「ただいま……っ、お母さん、起きてたの?」 「うん、千早を待ってたの。今日は千早がこの家にいる最後の日でしょう?」 そうだった。 この子は明日、家を出て行く。 プロダクションの社宅に入り、一人暮らしをすることになる。 そうでもしなければならないくらい、千早の仕事には、質と量の両立が要求される段階になっていたのだ。 「お母さん、またその雑誌読んでたの?」 「そうよー?ミリオンセールスたたき出す娘なんて、日本に何人もいないじゃない。 シングルだって職場でみんなで、なんて言うのアレ?そうそう、ヘヴィーローテって言うのかしら?」 「……もう、やめてよ。恥ずかしい」 そう言って、恥ずかしそうに千早が笑う。 どんな形であれ、以前よりこの子の表情が豊かになった。 それは素直に、嬉しいと思う。 「そうそう千早、ちょっと用意してるものがあるのよ」 何?という言葉を横から受けながら、冷蔵庫からこの日のために用意していた箱を一つ取り出す。 テーブルの上に置いて、フタを開けた。 「……お母さん、これ……!」 「少し早いけど。千早、お誕生日おめでとう」 家を出てしまえば、ここで誕生日を迎えることは当分なくなるだろう。 その前に、どうしても。これだけはやっておきたかった。 千早のための、バースデーケーキ。 「あ、でも11時だし、今からだと太っちゃうかしら?」 「……ううん、食べます!……今食べたいの」 「わかった。今コーヒー淹れるわね」 言いながら、カップを取りに台所へ立つ。 ちょうど戻ってきた時に、机の上の千早の携帯が光った。 「あら、メール?」 「うん、春香かしら……?」 携帯を開いた千早の動きが、止まった。 「お父さんだ……」 「!……なんて書いてあるの?」 千早が黙って、携帯をこちらに差し出す。 純粋に興味があった。あの人が、娘にどんなメールを出すのだろう。 『明日家を出ると聞いた。 一人で暮らし仕事に臨むとなれば、まだ若いとは言えお前も一人前の社会人だ。 必死に打ち込み、変わらずいい仕事をしなさい。 事務所の人たちにくれぐれもよろしく伝えて欲しい。 あと、「彼」はあくまで仕事仲間だ。 くれぐれも公私混同をしないように。 誕生日にはまたメールします。 頑張りなさい』 ……あの人も同じなのだ。 そう思ったら、少しだけ心が軽くなった。 それにしても。 「……あの人が娘とメールするなんて始めて知ったわ。結構連絡するの?」 「それなりに」 「……それにしてもこのメール、時雨さん意識しすぎね」 「……どういうわけかわからないけど、いつもそんな内容のところが入ってるの。私とプロデューサー、まだそんな関係じゃないのに……」 「『まだ』?つまりそうなる予定か意志があるってこと?……一応母親として知っておく義務があるわ」 「!?ち、違います!私そんなこと……」 顔を真っ赤にしてしどろもどろになっている。 こんな千早を、はじめて見た。 いつの間にか、女になっていくのだ。 願わくば、何年も先にある女としての未来が、私と同じではないように。 「ま、あなたも分別はあるだろうし、あんまり深く詮索はしないわ。 ただし、軽はずみなことはしないこと。 他の子といる世界は随分違うけど、あなたはまだ15歳なんだからね?」 「……はい」 「さ、遅くなっちゃうし、早く食べましょ?そろそろコーヒーも出来てるだろうし」 コーヒーを淹れて、ケーキを切り分け、ささやかなバースデーパーティーが始まる。 「……おいしい?」 「はい、とっても」 笑顔でうなずく姿を見て、ふと何かが心の中にこみ上げる。 何だろうと考えてみて、それが幸せなのだと気付いた。 娘が目の前にいて、ケーキを食べている。それだけの幸せ。 それだけで良かったんだ。 いるのは二人だけ、それでも、こんなに暖かいのに。 どうしてそれに気付けなかったんだろう。 あの子が求めていた幸せは、これだったんだ。 こんなに近くにあったのに。どうして。 「お母さん!?」 千早が叫んで立ち上がる。 どうしてだろうと思って、気付いた。 涙が。 気付くと、もう止まらなかった。 「ごめんなさい……、私達、最後まであなたの欲しがっていたもの、あげられなかった。 こんな……こんなとこに……」 「お母さん……」 「ちはやが、そばにいてくれるのって、こんなに嬉しかったんだね。 ちはやは、これが欲しかったんだね。 なんで……なんで、いまになって……」 娘の顔を、見ようとして、顔が上がらなかった。 見ていても、きっと涙でわからなかっただろう。 ただ、茶色のテーブルの色だけが滲んで。 そして、両肩が暖かい何かに包まれるのを、感じた。 千早が、私のことを抱きしめてくれていた。 「もういいの、おかあさん。 私はもう、前を向いて歩いていけるから。 あの子も私の歌の中で生きてる。 お母さんとお父さんも、私の中にいる。 辛いこともあったけど、それも全部一緒に抱えて、私は歌うから。 嬉しいことも悲しいことも、全部私だから。 だいじょうぶ、だから、お母さんも。」 千早の声が、私の心に染み入ってくるのを感じた。 神様、赦してくださいとは言いません。 どうか、この子だけは。 この子だけはあの時のように私達から奪わないで。 私達が与えられなかった幸せを、どうかこの子に与えてあげて。 「ちは……やっ、ごめんなさい……!ごめんっ……なさいっ……」 千早がそっと、うん、と呟くのが、聞こえた。 「荷物はこれで全部?」 「うん、全部積み終わったわ」 音無さんが乗ってきたバンに、差し当たり必要な荷物を積み終わったところだった。 「それじゃあ、後ろ閉めますね?」 言って、音無さんが小さな体で思い切りよくドアを閉める。 当面の生活は間に合うはずだ。 必要な家電等は、後日私も付き合って選んであげることにした。 都合が合わなければ、音無さんも時雨さんもいるだろう。 「……それじゃあ、行くね、お母さん」 あの後1時間近く泣いていた私を、千早は黙ってじっと抱きしめていてくれた。 あれが贖罪になったとは思わない。 でも、私は昨夜よりもまっすぐに娘の顔を見られるようになっていた。 「気をつけなさいね? ちゃんと、食べないとダメよ?」 千早がどこか、悲しそうに笑った。 後ろで穏やかな笑みを浮かべて控えていた音無さんに、私は頭を下げる。 「千早をよろしくお願いします」 「はい、お任せ下さい」 そう言って音無さんは、運転席に乗り込んだ。 セルの音が聞こえて、エンジンが動き出す。 乗り込もうと後ろを向いた千早の手を、私は握った。 「……たまには、連絡なさいね?」 「……うん。いってきます」 声が、少し震えていた。 千早の顔を見て、ゆっくりと手を離す。 千早がこちらを見ながら、助手席のドアを開けた。 そのドアが閉まった瞬間、あの子は巣立っていくのだ。 私達から。 「いってらっしゃい」 私の言葉にうなずいただけで、言葉を返さずに、あの子はドアを閉めた。 テールランプが消え、ゆっくりと車が発進する。 車の後ろのガラス越しに、あの子が後ろを向いてこっちを見ているのが見えた。 そして、やがてその姿は遠すぎて見えなくなった。 「いって、らっしゃい」 一人残された路上で、私はもう一度、そう言った。 私達の娘が、私達から巣立った日。私達から解き放たれた日。 ……今日が、私達の娘、如月千早が、新しく生まれた日。 おめでとう、千早。 あなたのこれからの人生が、幸せに満ち溢れていますように。 ふと顔に影を感じて、上を見上げる。 小さな鳥が一羽、青空の中を太陽に向かって、まっしぐらに飛んでいった。 了 --------------------------------------------------------- 千早のセリフ出展 -to the wonderful new world-(時雨P)より 【如月千早 ― 25】 【如月千早 ― 46】 ---------------------------------------------------------